故郷を訪ねる

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祖母と母の故郷、岡山県西粟倉村を訪れる。亡き祖父の雨の歓迎を受け、親戚のおじさんによくしてもらい、想い出に残る一日となった。(やや長文です)

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祖母と祖父

私は、両親が共働きだったこともあって、幼少の頃から祖母に育てられたいわゆる「ばあちゃん子」であった。その祖母や幼少時代を村で過ごした母から、故郷の岡山県西粟倉(にしあわくら)村のことはよく聞かされて知っていた。

何でもものすごい山奥にあって鳥取との県境に面しており、北へ流れる水は日本海に注ぎ、南へ流れる水は瀬戸内海へと注ぐ分水嶺があるということであった。そういえば、一昨日には1つ、昨日は2つと峠を越えてきており、辺りは本当に山深くなってきていた。

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峠越え

朝起きると雨だった。これは祖父が見にきたんだな、と思った。私の祖父はすでに他界しているのだが、自他共に認めるものすごい雨男だった。誕生の日から結婚の日、他界した日、そして極めつけは葬式の日までドシャ降りの雨を降らしたという記録が残っている。

そんな雨だったのでいつもの雨降りとは違い、逆になんだか楽しい気分になり、宿を出て西粟倉村へ向かった。

西粟倉(にしあくら)へ

9時過ぎに西粟倉村に入る。雨が降っていた関係上、車庫で休ませてもらおうと思い、農作業中だったおじさんに声をかけて事情を話して断る。すると人のよさそうなおばちゃんがこっちへ歩いてきたので、休憩がてらいろいろと話す。

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西粟倉村

「ここはもう西粟倉(にしあくら)ですよね」
「ええ」
「実は歩いてずっと旅しているのですが、私の祖母と母がこの村の出身でして…。有元という名字なのですが…」
「ああ、大原の?」
「いえ、大原の方は本家で、うちは分家の方でして」

有元家は西粟倉村の近くの大原町というところでは一応名前が売れている名門(?)で、今でも本家は代々続いているそうである。ちなみに祖母は分家の筋だそうである。

「じゃあ西粟倉村(にしあくら)は初めて?」
「はい、祖父母と母が生まれ育ったところですから。一度は訪れてみたくて」

祖母が私に西粟倉村のことを話すときは、必ず「にしあくら」と発音するので私もそうしてみたのだが、確かに地元の人の発音も「にしあくら」であり、やっぱり祖母はここ西粟倉村で育ったんだなぁなどと至極当り前のことをしみじみ実感してしまった。

このおばちゃんとはずいぶん話したが、私の祖父の野々上の家系が代々神主だったことや私の祖父のことも知っており、何か懐かしい場所へ帰ってきたような錯覚に陥りかけてしまった。

故郷探訪

西粟倉村は祖母の話から想像していたほどものすごい山奥ではなく、村の中心を走る国道373号線の両わきにはちゃんと店もあり、車通りも意外と多く、私は今までの祖母の話から描いていたイメージとのギャップに多少とまどってしまった。

結局、西粟倉村では祖父の家の野々上家の墓と、母が通っていたという西粟倉小学校を訪れた。西粟倉小学校では祖父が作詞した校歌が残っており、体育館の壁に飾ってあるというので楽しみにして行ったのだが、当日が日曜日だったため、見ることはできなかった。

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西粟倉小学校

祖父ももう安心したのだろう、雨もあがり気持ちよい晴天の下、国道を南下して大原町へと入る。大原町でも中心街は「古町」といって私が祖母から散々聞かされている地名である。そこに有元(祖母の名字)の本家があり、今でも本陣の建物が残っているという。因幡街道の宿場町大原の本陣は観光用に看板などが整備されており、その看板にはしっかりと「有元家」の文字が書かれていた。

有元利徳さんと

その後は、同じ有元家の近い親戚にあたるおじさんが大原町で写真屋をやっているというので訪れる。このおじさんは有元利徳さんといい、私の母の小さい頃なども知っているということで有元家の昔の話などをたくさんしてくれた。

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大原本陣

しかも「昼食がまだだ」と言ったら、近くのレストランでステーキを御馳走してくれた。久々に食べるステーキは言葉にできないくらい美味しく、しかもその後には有元本家の墓と祖母の家の墓も車で案内していただき、突然の訪問者に本当にいろいろとよくしてもらった。

別れ際に現金で餞別までいただいた私は、恐縮しながらもしっかり受け取り、「今日は本当にいい日だったなあ」と心の底から思いながら、夕暮れの近づく古町を後に、今日の宿泊予定地まで4kmの道のりを歩き始めたのであった。