反戦への想い
沖縄で少しだけ触れることができた戦争の真実の姿。特に集団自決の悲惨さに触れて、改めて反戦の想いを強くした沖縄縦断歩行となった。
沖縄と戦争
2月11日に佐多岬にとりあえずゴールした私は、さらに南へ歩く地を求めて船で沖縄へ渡ってきていた。
今日は沖縄本島歩行の6日め、最終日である。正月休暇の前から沖縄へ渡る計面を立てていた私は、少しでも沖縄の事を知りたく思い戦争の本も含め本を何冊も読んだが、それは筆舌に尽くし難いようなもので、前々から聞いていた「沖縄では戦争の話はするべきじゃない」という言葉の意味が納得された。
私は小学校高学年の頃「ふたりのイーダ」(松谷みよ子著)という本を読んで原爆のことを知り、さらに広島を父と訪れるに到って、反戦の想いを小学生にしては強くもっていた。それ以来しばらく意識したことはない反戦の想いが、今回の日本縦断を終わったときにはことさら強くなっていた。
それは広島で13年ぶりに平和祈念資料館を訪れ、鹿児島県鹿屋市で特攻隊に関する展示があった航空史資料館を訪れ、沖縄で南部戦跡を訪れることができたからに相違ないと思う。
集団自決
まず訪れた先は沖縄県立平和析念資料館。ここは団体客の観光のメインコースから外れていたのでゆっくり見学できて良かった。沖縄戦について様々なことを学ぶことができたが、一番心に残ったのは「集団自決」のことであった。
「『集団自決』の実相は、家族、親族同士が殺し合う修羅場であった」という記述を見たとき、私は自分の眼を疑った。読み間違いかと思った。しかし、続いて読んでいくと次のような事が書かれていた。
慶良間諸島は「集団自決」が最も多く起こった島々だった。特に渡嘉敷島のそれは凄惨以外の何物でもなかった。軍部から配給される手りゅう弾も十分な数はなかったため、ネコイラズがある家はそのネコイラズを飲んで死んで行ったのだが、このネコイラズはあまり多く飲み過ぎると逆にもどしてしまい死ねなくなってしまうのである。
ある家の主人がそれを知らないで家族に大量に飲ませてしまい、家族みんなが死ねずに苦しんでしまった。父親は恐怖のあまり半狂乱になりながら祖父母と妻を棍棒や鍬などで殴り殺し、まだ小さかった子どもの脚を持って泣きながら近くの庭石などにメチャクチャにたたきつけて殺していたというのである。子どもはポロ雑巾のようになっており、結局、その狂ってしまった父親は米軍によって連れ去って行かれたということである。
ある資料によれば渡嘉敷島で「集団自決」によって絶命した村民は325人にのぼるという。
ひめゆり部隊の生き残り
続いて昼食後、ひめゆりの塔へと向かった。ひめゆりの塔自体は団体の親光客が次から次へとつめかけてくるといったこともあり、はっきり言ってたいしたことはなかったが、私が心うたれたのはそのすぐ横にあった「ひめゆり平和析念資料館」の中で聞かせていただいた、ひめゆり部隊の生き残りの方(本人)の話であった。
その女性の方が「友達が目の前で銃殺されるときに、最後に『お母さ~ん!』と叫んで死んでいったんですね。その言葉が今でも耳から離れません。この言葉を伝えたくてこの資料館を作りました」と話してくれたことは今でも強い印象をもって私の心の中に残っている。思い出したくもないことだろうに、後世へ真実を伝えるために努力している彼女の姿はとても凛々しく感じた。
この後、道に迷いながらも沖縄本島の南の果て喜屋武岬に到着して沖縄本島縦断を成し遂げた私は、次なる目標地の宮古島へ向かって新たな挑戦を続けることになるのであった。